Jim Edigerの師匠、Ted Sambell について
英国生まれのカナダ人ピアノ技術者。2007年、ピアノ技術者組合殿堂(アメリカ合衆国・ミズーリ州・カンザス・シティ)に列せられる。カナダ人ピアノ技術者としては初めての快挙。
14才で「英国」ロンドンの技術専門学校入学、ピアノに関する技術を学ぶ。 第二次大戦後、「カナダ・オンタリオ州」のロンドンに家族ともども移住。
1977年から1990年までトロントのジョージ・ブラウン工芸短期大学で講師を務める。
カナダ人ピアニスト、グレン・グールドの1981年に録音された傑作「ゴルト ベルク協奏曲」で、ピアノの改造と調律を担当。
ピアノ技術者組合五十周年記念大会で、彼の殿堂入りが発表された際には、出席していた500人以上のピアノ技術者がスタンディング・オベーションで 称えたという。
現在も、カナダ中のたくさんのピアノ技術者に師匠として尊敬される人物。2018年死去。
グレン・グールドとピアノ調律
Jim Ediger, Northern Lights News editor (1997) (訳:Kazumi K. Ediger)
ノーザン・ライツが発行するニューズ・レターの編集者は、とくにこれといった特徴もないバイリンガルですが、実は音楽家でピアノ調律師であることをご存知である読者は、ほとんどいらっしゃらないと思います。
私は、トロントに16年住んでいましたが、ピアノ調律の技術を、トロントではよく知られた学校、ジョージ・ブラウン工芸短期大学(George Brown College of Arts and Technology)で勉強しました。
アップライトとグランド・ピアノに関する技術訓練を二年間で習得できる学校は、北アメリカではここを含めて二つしかありません。
そして、最も有名なカナダ人ピアニストで、またちょっと風変わりな人物であったグレン・グールドにまつわる個人的な想い出を、ノーザン・ライツ・ニューズレター発行十回記念の特別記事として語れることをとても光栄に思います。
グレン・グールドが亡くなったとき、私はトロントに住んでいました。そのときの自分がどういう状態であったか、私はもちろん思い出せます。
あなたにとって特別な存在であった有名人が亡くなったとき、自分が何をしていたかを思い出せるように。たとえば、アメリカ人が、ジョン・F・ケネディやマーティン・ルーサー・キングの予期しない死に直面したときのことを思い出せるように。
グレン・グールドは、同郷の誇れるヒーローの一人でした。ニール・ヤングや、スタン・ロジャース、ジョニ・ミッチェルやオスカー・ピーターソンと同じく。
彼は、私たちと同じトロントっ子で、今ほど広い範囲になっていないころの下町キャベッジタウンに住んでいました。
私たちトロントっ子は、不本意ながらも、彼の伝説的な奇癖については受け入れていました。それも彼自身の一部なのであるし、彼の音楽は、私たちはもちろん世界中に、何かを与えてくれるものだったからです。
けれど彼の死に際し、みんなが嘆き悲しんだことを思うと 彼は、少なくとも私たち同郷の仲間内では、世間でいわれていたような「世捨て人」ではありませんでした(グールドはコンサートをほとんど行わず、主な演奏活動の場は録音やラジオ・テレビなど放送媒体でした)。
私がピアノ調律師になろうと決心したのは、彼が亡くなった翌年でした。カナダの叔父で、ピアノ調律師だった人が、自分のチューニング・ハンマーのひとつを譲ってくれたのです。これがおまえを調律師にしてくれると思うよ、と言って。
私はいろいろな調律師に弟子にしてほしいと頼みましたが、誰も受け入れてくれませんでした。
それからかれこれ数年たって、地元のピアノ技術者を雇ってピアノを探しにいきました。ばらばらにして、調律と修理の練習ができるようなものが欲しかったからです。でも売りにだされていたピアノは、練習用にしてもあまりにもひどい状態だと分かっただけでした。
でも調律師を車で家に送る途中、いろいろ尋ねているうち、とても重要な情報を得ることができました。
それは、その調律師も学んだ、まさにここトロントのジョージ・ブラウン短期大学なら、最良の訓練を受けられるだろうということだったのです。
うちに帰ると、両親からの小切手を添えた手紙が着いていました。
父は「お金を貸してやるから、家賃か、おまえのキャリアのために使いなさい。私が安心して死ねるように」。
母は追伸の追伸で、ピアノの調律をやってみたらと勇気付けてくれていました。
なんていいタイミング!僕もそうするべきだって思ってたところだよ!
神の御恵みによる幸運から、「主がお尻を蹴飛ばしてくださった」ように思えました。
そして、二、三時間髪をかきむしり、今後のキャリアに関する決断を検討した後、その日のうちに問い合わせて受講の登録をしました。
なんとあと二名で定員いっぱいで、三日後には二年間のプログラムが始まる、というところでした。
私は学校に通うために、仕事を辞め、まとまった額の学資ローンを組みました。
講師のひとりは、アン・フレミング・リードという人でしたが、まだ若いけれど熟練した調律師/技術者で、「ドラゴン・レディ」というあだ名で呼ばれていました。管理者として、ほんとうにびしばしむちを振るような厳しい人だったからです。
彼女の担当はおおむね、修理と改造の分野でした。調律の主任講師は、テッド(エドワード)・サムベル。 物腰は柔らかいけれど徹底して献身的で、経験深く、カナダ中のたくさんの優秀なピアノ技術者たちから師匠として尊敬されている人物でした。(テッドのピアノ技術者殿堂入りは満場一致で決定されました)
2年生になって、ニューヨーク市・スタテン島にあるステインウエイの工場へ研修旅行にいったとき、テッドはグレン・グールドの思い出話をしてくれました。
数年前、彼はグールドから、録音のための準備として、ニューヨーク市のスタジオにあるグランド・ピアノの改造と調律をしてほしいという依頼を受けたのです。 通常ピアノのキータッチの深さ(鍵をたたいた時に沈む深さ)は10ミリなのですが、グレンはそれを7ミリにしてくれといってきました。ハープシコードの鍵盤のようにしてほしいと。
深さを浅くすると、鍵をたたいたとき、グランド・ピアノ本体の力強い動力に伝わる影響も弱くなってしまいます。それが、彼がそのとき録音しようとしていたバロック音楽に限定して、適応するように作られたものであっても、です。ということはつまり、録音が終わったあと、鍵の高さとピアノのすべての動きを、本来の工場規格にもどさなくてはならないということでもありました。すべてあわせて三週間ほどの作業です。
私の師匠は一週間早く現場に入り、ほとんどスタジオに住み込みで、録音と、そのあと続く元の状態にピアノを戻すという作業が終わるまでそこに滞在しました。
テッドが行った調律と調整は、偉大なピアノ技術者と評されるにふさわしい出来で、グレン・グールドがだした一風変わった要求に、完璧に応えたのです。
このとき録音されたバッハ作曲の「ゴルトベルク協奏曲」は、稀代の傑作として世界的な名声を得ました。
トロントに帰る日、仕事と、教えている生徒が教室いっぱいになって待ちわびているのがわかっていたので、テッドは、グレンに飛行機で一緒に帰ろうと勧めました。
しかし、グールドは列車に乗るほうがいいと聞く耳持たず。 結局彼らは別々に、グールドは列車で、私の先生は飛行機で帰ってきたのでした。
グールドがこの世を去ったのは、それからまもなくのことでした。
そして数年後。私の尊敬する師匠は、そのころに思いを馳せながら私に言います。「あのとき、彼と一緒に列車でトロントに帰ればよかったなあと思うよ・・・」
グールドは、音楽上の表現はもとより、スタジオ録音の技術についても草分け的存在でした。彼は、自分の望むように、ほかにはない方法でピアノを調整しました。
ルイ・アームストロングがマイクの使い方を学んで成功したように、 グールドは、ピアノと録音スタジオに関する技術を駆使したおかげで、彼は自らの音楽世界を完成し、それをより多くの人々に届けることができるようになったのです。
そしてこのやりかたには、世捨て人のように人前に出ずにいられるという利点もあったわけです。
グールドの演奏するゴルトベルク変奏曲は、副旋律はもちろん、各声部がそれぞれ独立した明瞭な音として聴こえます。ですがそれらが、ばらばらではなく一体になることにより、バッハが天から受けた霊感を織り上げた、生きた音楽のタペストリとなるのです。