1989年11月10日か11日、僕らのロックバンド「アンドリュー・キャッシュ・アンド・ジ・アンバサダーズ」は、「ロック・バス」で西ベルリンに到着した。夜の遅い時間、僕らは適当な場所を見つけてバスを停めた。
西ベルリンに通じる高速道路の東ドイツの検問所に入ったとき、警備隊員たちがびっくりするほど陽気にバスに乗り込んできた。きっと違法ドラッグや何らかの密輸品を持ち込んでいないか服や座席の下を調べるのだろう――最初そう思った。だが彼らは冗談を言い合い、バンドのTシャツやCDがほしいと言ってきた。僕らは喜んでそれらの品を贈り、何事もなくすんなり通ることができたのだった。
翌朝、8時半か9時頃に目が覚めた。
二段ベッドを降りて、カフェラテを買いに行こうと眠い目をこすりながらロックバスを出た。そこで驚いた。
ものすごい数の人々が通りという通りにあふれていた。なにか使命感に駆られたようすでハンマーとリュックサックを担いでいる人もいたし、通りで道に迷ってうろうろしている人もいた。
僕が地元の住民に見えたのか、東ドイツから来たらしい人たちがドイツ語で銀行やお店の場所を尋ねてきた。知っているはずがない。
「すみません、ドイツ語、シャベレナイ…旅行者なんです」
僕の両親は低地ドイツ語が話せるし、ベルギー国境の近くに僕の姓と同じ『エディガー』っていう町がある。だけど、僕はドイツ語はさっぱりだった。エディガーの町でもライブをしてみたかったけど、たぶんツアーの間は会場は取れなかっただろう。
ベルリンに話を戻そう。あとで知ったことだが、東西ドイツの経済格差を考慮して、東ドイツ市民全員に米ドルで300ドル分の手当が出ていた。銀行に行って申請するだけで引き出せて、あとは好きなように使っていい。それで銀行や店舗には長蛇の列ができていたのだった。
コーヒーをどうやって手に入れようか考えているとき、ふとハンマーを担いでいる人たちは壁の方へ向かっているんじゃないかという考えが頭をよぎった。壁が壊されたっていうことは、そのかけらを拾えるかも知れない。後で知ったのだけど、停戦交渉の結果、壁が打ち壊され始めたのは、僕らが到着した日の前日――記憶が正しければ、11月の9日――だった。
つまり、冷戦が正式に終結したのはまさに僕らが西ベルリンに到着した日だった。そして今日、幸運な運命の巡りあわせにより、なんと公演がオフの日だった!
僕はコーヒーをあきらめてとりあえず歩き出した。壁の一部よりも、この出来事の片鱗でも拾って、何が起きているかをしっかり見ておこうと思った。
ほかのバンドのメンバーがどうしているか分からなかったが、アンドリュー・キャッシュに会った。彼はバンドのリーダーであり、ジャーナリストとしての使命感も持ち合わせていた。僕たちは意気投合して壁の方、東ベルリンから西ベルリンに入る超有名な検問所「チェックポイント・チャーリー」へ向かった。20分ほど歩くと壁が見えてきて、すぐに群衆で埋め尽くされた検問所前の広場に到着した。
空気がピリピリしているのを感じた。たぶん大晦日のニューヨークのタイムズスクエアみたいな感じ?
僕たちはフリードリヒ通りの広場の角にあるカフェバー・アドラー(現在はカフェ・アインシュタイン)を見つけた(これも後で知ったことだけど、「アドラー」はドイツのシンボル「鷹」の意味)。
二階の席からは、壁とチェックポイント・チャーリー、そして国境の向こうの大通りの1キロほど先にある巨大な柱に支えられた東ベルリンの歴史的建築物が見えた。
密集した人々の行列がありとあらゆる移動手段で東ベルリンから西ベルリンへ流れ込んできていた。徒歩、自転車、車、ロバの荷車。「何が何でも来なければならない」という雰囲気が伝わってきた。
どの街角でもみんな彼らの到着を喜んでいた。紙吹雪が舞い、ライスシャワーが撒かれた。なんだか結婚式みたいだ、と思った。
そこで気が付いた。なんだ、そうじゃないか――二つの国が今、結婚したんだ!僕たちは今、結ばれている、良くも悪くも。曰く、死が二人を分かつまで。
そんなお祭り騒ぎのなか、アンドリューと僕はカフェ・アドラーの二階から眼下の遊歩道とフリードリヒ通り公園を眺めた。何か注文しなければならなかったが、確かカフェラテではなくダブルのエスプレッソをたのんだ。すぐにビールに取って代わった。僕の大学時代の教授が言っていたように、「前頭葉ロボトミー(frontal lobotomy)」よりも「目の前にビール」(bottle in front of me)がいいね(笑)。
東ベルリンからチェックポイント・チャーリーを抜けて延々と続く熱狂的な群衆の列がここカフェ・アドラーまで届いていた。僕は時間の感覚が分からなくなっていた。
カフェで知らない人たちとおしゃべりした。英語を話す人がいて、ニューヨークから来たと言っていた。偶々ここにいたのかと尋ねると、「ここで起きていることを聞いて、とにかくここに来なきゃと思って最初の飛行機の便を予約したんだよ」と言っていた。
バンド仲間のアンドリューも、どこかにつかまって話し込んでいた。しばらくいなくなっていた間、たぶんトロントかニューヨークからの取材を受けていたのだと思う。彼は単なるバンドのリーダーというだけではなく、社会派のジャーナリスト・ソングライターとしても注目されていた。
気が付いたら何時間もカフェで過ごしていた。辺りが暗くなりかかってきて、アンドリューと僕は、僕らの家「ロックバス」に帰ることにした。
熱狂の冷めやらない中、僕たちは見知らぬ街の暗い通りをなんとか見当を付けて歩いた。
歩きながら、ものすごく腹が減っていることに気が付いた。そういえば朝から何も食べていない。
通りには誰もいなかった。どうする?歩き続けて、やっとのことでディスコふうのナイトクラブに辿り着いた。
「なにか食べるものはありませんか?」
乞食か路上生活者のような有り様で尋ねた。もちろん、二人ともドイツ語は話せない。そのことをこんなに残念に思ったことはなかった!ただ、そのときアンドリューが「食べる」のドイツ語が「Essen」だというのを思い出した。
店長はあきれた目つきで僕たちを見て言った。
「うちは夜9時以降は食事は出してないんだよ」
そう言ってから、言葉を続けた。
「まあ、今日は壁もぶっ壊れたしな。台所に来な。皿をやるから、適当に取って食いなよ」
中に入ると、シチューの鍋や野菜料理があった。それらを皿に盛れるだけ盛って、ナイトクラブのホールへ入った。ホールでは人々が酒を飲んで踊っていた。
恥も外聞もなく食事をかき込む僕たちを、みんな「えっ!?」という目で見ていた。
(日本語訳:KAWARAHIWA BOOKS)
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